ロバート・ケネディの補佐官に
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「ジョン・ローレンス・シーゲンソーラー」の記事における「ロバート・ケネディの補佐官に」の解説
『テネシアン』紙発行人のシリマン・エヴァンズ・ジュニアの方針に不満がつのっていたシーゲンソーラーは、1960年、『テネシアン』紙を辞職することを決意し、新任のロバート・ケネディ司法長官の補佐官に就任した。1961年4月21日にケネディがマーティン・ルーサー・キング牧師と会見した際、ケネディ以外ではただ一人の司法省スタッフとして会見に立ち合ったのがシーゲンソーラーだった。また、1961年にフリーダムライドが起こった際には、公民権担当司法次官補のジョン・ドアの補佐を務め、政府の主任折衝担当者としてアラバマ州知事ジョン・マルコム・パターソンと協力しようと試みた。パターソンは数日間電話の応対を拒否したが、ついにライダースの保護に同意した。しかし1961年5月20日、ライダースがモンゴメリーに到着すると州警察はいなくなり、待ち構えていた白人暴動者の群集の前にライダースを晒し者にした。 シーゲンソーラーは1ブロック向こうで暴動者達に追い掛けられていたフリーダム・ライダーのスーザンウィルバーを急いで救出に向かった。シーゲンソーラーは彼女を車に押し込み、「下がれ。私は連邦政府の者だ」と叫んだ。しかしパイプで左耳の後ろを殴られ、10分後に警察が到着するまで意識を失ったままだった。モンゴメリー警察署長のレスター・B・サリヴァンは「私たちはトラブルメイカー達が町にやって来るのを保護するつもりはない」と語った。
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