ロテール (西フランク王)とは? わかりやすく解説

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ロテール (西フランク王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 00:34 UTC 版)

ロテール
Lothaire
西フランク国王
在位 954年 - 986年

出生 941年
西フランク王国ラン
死去 986年3月2日
西フランク王国ラン
埋葬 西フランク王国ランスサン=レミ聖堂
配偶者 エマ・ディタリー
子女 ルイ5世
家名 カロリング家
王朝 カロリング朝
父親 ルイ4世
母親 ゲルベルガ・フォン・ザクセン
宗教 ローマ・カトリック
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ロテール

ロテールフランス語Lothaire, 941年 - 986年3月2日)は、西フランク王国カロリング朝)の国王(在位:954年 - 986年)。ルイ4世とドイツ王ハインリヒ1世(捕鳥王)の娘ゲルベルガの息子[1]

生涯

954年に父王の死去をうけ即位した。はじめ、パリ伯ユーグ(956年没)とケルン大司教ブルーノ1世(ロテールの叔父、965年没)の後見の下にあった[2]

ロテールの治世の初期は、ノルマンディー公をはじめとする家臣との戦いで占められた。また、ロレーヌオットー2世からの奪還も計画した。977年、オットー2世はロテールと仲の悪かった弟シャルルに下ロレーヌ公位を与えたが[3]、これに反発したロテールは、978年の春、エクス=ラ=シャペル(ドイツ名アーヘン)で奇襲攻撃を行なってオットー2世を捕らえる直前まで持ち込んだ。これに対してオットー2世は同年秋、フランスへ復讐戦をしかけた。オットー2世の兵はパリ近郊まで侵攻したが領土を奪うことはできず、損害を出して撤退した[4]。結局、980年5月にマルギュ=シュル=シエール(Margut-sur-Chiers)で両者の間に講和条約が結ばれ、ロテールはロレーヌを放棄した[5]

980年頃からロテールとユーグの息子ユーグ・カペーは対立するようになった。一方でオットー2世の急死に伴い、ランス大司教アダルベロンのとりなしによって後継のオットー3世と和解した。

986年3月2日、ロテールは死去した。王位はイタリア王ロターリオ2世の娘エマとの間の息子ルイがルイ5世として継承した。

ロテールは、実弟下ロレーヌ公シャルルの宮殿長ロベール伯の姉妹とされる愛人との間に、アルヌール、リシャールという2人の非嫡出子をもうけた。

庶子アルヌール(アルヌルフ)は988年にユーグ・カペーの推薦でアダルベロンの後継としてランス大司教となった[6]

脚注

  1. ^ 瀬原、p. 89
  2. ^ 下津、p. 215
  3. ^ 瀬原、p. 97
  4. ^ 瀬原、p. 97-98
  5. ^ 瀬原、p. 98
  6. ^ 瀬原、p. 106

参考文献

  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
先代
ルイ4世
西フランク
954年 - 986年
次代
ルイ5世



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