レオンティアとマルキアヌスらによる反乱(479年)
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「ゼノン (東ローマ皇帝)」の記事における「レオンティアとマルキアヌスらによる反乱(479年)」の解説
479年、今度はレオ1世の娘レオンティア(英語版)とレオンティアの夫マルキアヌス(英語版)がゼノンに対して反乱を起こした。守備隊の支持を得た反乱軍は一時はコンスタンティノープルの掌握に成功しかけたが、イサウリア人を引き連れて救援に訪れた将軍イルスの活躍によって鎮圧された。マルキアヌスは捕らえられ、聖職者にされてカッパドキアへ追放された。このときウェリナが暗躍してイルスの暗殺を企てたが、イルスは彼女の企てを見破りウェリナを捕らえて牢に入れた。ウェリナの娘であったゼノンの妻アエリア・アリアドネは母ウェリナの解放を求めたが、これをイルスが拒絶したためアリアドネはイルスの殺害を企てた。イルスはゼノンと相談して東方軍司令官に就任することでコンスタンティノープルを離れることにした。 ゼノンはコンスタンティノープルにイルスより遅れて到着したテオドリック・ストラボに反乱への加担の疑いをかけてマギステル・ミリトゥムから罷免した。これを不満としたテオドリック・ストラボはテオドリックを従えてトラキアを荒らし回った。ゼノンはブルガール人にトラキアを与えることを約束してテオドリック・ストラボの討伐を依頼したが、ブルガール人はテオドリック・ストラボとテオドリックによって撃退されてしまった。しかし481年、テオドリック・ストラボはギリシャへの移動中に野営地で事故死した。ゼノンはテオドリックとの和解交渉を開始し、テオドリックをマギステル・ミリトゥムの地位に復帰させる条件で和解を成立させた。ゼノンは484年にはテオドリックに最高官職である執政官の地位を与え、485年にはテオドリックを養子として迎え入れて皇帝の一族の証である「フラウィウス」のノーメンを与えるなど、テオドリックとの関係の維持に努めた。
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