ルーシからピョートル1世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/21 13:35 UTC 版)
「ウエズド」の記事における「ルーシからピョートル1世まで」の解説
ルーシ(キエフ・ルーシ等ルーシの諸公国)期からウエズド(古東スラブ語: ѹѣꙁдъ)という用語は用いられていた。法規の中のもっとも古い用例は、1150年にスモレンスク公ロスチスラフがスモレンスク主教に対して発した勅令書の中に見られる。中世においてはナメストニク(クニャージ・ナメストニク)がその管理にあたった。ウエズドはいくつかのヴォロスチを総括した行政区画であったが、後にオサードと呼ばれる軍事拠点をも内含するようになった。また、ウエズドの行政中心地の都市(ウエズドヌィー・ゴロドとも。ゴロドではなくセロやデレヴニャの場合もあった)では、ウエズド内のヴォロスチからテャグロ(ru)(直接国税の一種)が集められた。ヴォロスチはスタンに、さらにスタンはオコリツァ(ru)に区分された。 15世紀後半、ウエズドの概念は、より広大な範囲をさすゼムリャー、オーブラスチとも、狭小な範囲をさすヴォロスチとも混同が始まり、ウエズドの境界線は修正された。16 - 17世紀にはより広大な行政単位であるラズリャド(ru)が登場し、その管轄下に組み込まれた。ラズリャドは、中央政府とウエズドとの間を仲介する役割を担った。また、17世紀初頭からウエズドの管理はヴォエヴォダが行い、行政・司法をも管轄した。18世紀初頭には、ラズリャドはグベールニヤへと改組された。これはピョートル1世の行政改革(ru)によるものであり、規模が無秩序な状態となっていた、都市法を持つ都市、ウエズド、ラズリャド、かつての分領地などが整理された。
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