ラ・リューシュを拠点とした芸術家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 19:56 UTC 版)
「ラ・リューシュ」の記事における「ラ・リューシュを拠点とした芸術家」の解説
ラ・リューシュに部屋を借りていた芸術家はほとんどが貧しい外国人で、特に1910年代にはソ連や中東欧での弾圧を逃れてきた若いユダヤ人が多く、「貧乏人のヴィラ・メディチ」と呼ばれていた。ラ・リューシュの公式ウェブサイトによると、1900年代から1940年代にかけてラ・リューシュに部屋を借りていた芸術家は、ラ・リューシュの生みの親でフランス人彫刻家のアルフレッド・ブーシェ(1850-1934)、キエフ(ウクライナ)出身の彫刻家アレクサンダー・アーキペンコ (1887-1964)、帝政ロシア領ヴィテブスク出身のユダヤ人画家マルク・シャガール (1887-1985)、帝政ロシア領ダウガフピルス(ラトビア)出身の画家ジャック・シャピロ(フランス語版)(1887-1972)、アングレーム出身の彫刻家ロベール・クチュリエ(フランス語版)(1905-2008)、ハンガリー生まれの彫刻家ジョセフ・シサキ(フランス語版)(1888-1971)、ウクライナ出身の画家イサック・ドブランスキー(フランス語版)(1891-1973)、ボルドー出身の画家ジョルジュ・ドリニャック(フランス語版)(1879-1925)、ウッチ(ポーランド)出身でアウシュビッツ収容所に送られて死亡した画家アンリ・エプスタイン(1892-1944)、帝政ロシア領チャヴスィ(ベラルーシ)出身のユダヤ人彫刻家レオン・インデンバウム(フランス語版)(1890-1981)、帝政ロシア領レチツァ(ベラルーシ)出身のユダヤ人画家ミシェル・キコイーヌ (1892-1968)、クラクフ大公国(オーストリア=ハンガリー帝国)出身のユダヤ系ポーランド人画家モイズ・キスリング (1891-1953)、帝政ロシア領ザルドック(ベラルーシ)出身のユダヤ系画家ピンクス・クレメーニュ(フランス語版)(1890-1981)、パリ生まれの彫刻家・画家アンリ・ローランス(フランス語版)(1885-1954)、オルヌ県アルジャンタン出身のキュビスムの画家フェルナン・レジェ (1881-1955)、帝政ロシア領ドルスキニンカイ(リトアニア)出身のジャック・リプシッツ(英語版)(1898-1986)、アリエ県ヴィシー出身の画家ルイ・ネイヨ(フランス語版)(1898-1973)、帝政ロシア領スミラヴィチ(ベラルーシ)出身のユダヤ系画家シャイム・スーティン (1893-1943)、帝政ロシア領ヴィツェプスク(ベラルーシ)出身のユダヤ系彫刻家・画家オシップ・ザッキン (1890-1967)、ブルターニュ出身の俳優アラン・キュニー (1908-1994)、スイス生まれの詩人・小説家ブレーズ・サンドラール (1887-1961) らであった。 この他、フランスの画家マリー・ローランサン (1883-1956) やガブリエル・ドゥリュック(フランス語版)(1883-1916)、オデッサ(ウクライナ)出身の画家アレグザンドル・アルトマン(フランス語版)(1885-1934)、リヴォルノ(イタリア)出身のアメデオ・モディリアーニ (1884-1920)、日本人画家の藤田嗣治 (1886-1968)、ルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシ (1876-1957)、イタリア出身のポーランド人詩人ギヨーム・アポリネール (1880-1918)、フランスの詩人マックス・ジャコブ (1876-1944) やアンドレ・サルモン(フランス語版)(1881-1969) もラ・リューシュを拠点として活動していた。ただし、実際に部屋を借りていたのか、居候をしていたのか、活動拠点にしていたのか、当時の雑然とした状況にあって区別は曖昧であった。
※この「ラ・リューシュを拠点とした芸術家」の解説は、「ラ・リューシュ」の解説の一部です。
「ラ・リューシュを拠点とした芸術家」を含む「ラ・リューシュ」の記事については、「ラ・リューシュ」の概要を参照ください。
- ラリューシュを拠点とした芸術家のページへのリンク