ラクナウ遷都と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 10:21 UTC 版)
シュジャー・ウッダウラの死後、息子のアーサフ・ウッダウラが太守位を継承した。彼はアワドの新都たるラクナウの建設にかかり、1781年にファイザーバードからラクナウに遷都した アーサフ・ウッダウラはアワドの王宮、市街地、ルーミー・ダルワーザーといったトルコ門、シーア派の記念館バーラ・イマーム・バーラーを建造するなど、新都ラクナウに独自のイスラーム文化を取り入れ、ラクナウは素晴らしい都市となった。 アワドの君主は様々な文化を保護したため、アワドでは独自のイスラーム文化が培われ、働き口が無くなったムガル帝国の画家をよく雇用して、アウラングゼーブの治世に衰退したムガル絵画の復興も行われ、ムガル帝国の様々な絵画が主体となった。また、イギリスから流入しもたらされたヨーロッパ風の絵画も、アワドでは大いに受け入れられ、のちの君主のたちは西洋風の肖像画を描かせている。アーサフ・ウッダウラもムガル絵画にとても理解を示し、彼はベンガル総督にいくつかのムガル絵画を献上している。 アワドは衰退したムガル帝国の後を継ぎ、「アワドのムガル時代」といわれるような素晴らしい文化が作り上げられ、ムガル帝国の首都デリーを凌駕する繁栄だった。 1797年9月21日、アーサフ・ウッダウラは死亡し、息子ワズィール・アリー・ハーンが太守位を継承した。
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