ユースと高校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 06:02 UTC 版)
ウルグアイで生まれたラモスは、11歳の時に家族とともにアメリカに移住した。彼の父もウルグアイでプロサッカー選手をしており、タブは幼少の頃からサッカーの試合を見ることに染み入っていった。ウルグアイに住んでいる間に、彼はモンテビデオのウニオン・ベシナル・ユースサッカークラブでプレーしていた。 アメリカに移住したとき、ニュージャージー州のハリソン(英語版)、カーニーに住んでいた。 セイント・ベネディクト高校へ行き、その高校には数年後にクラウディオ・レイナが在籍することになった。1982年、彼は米国市民権を得た。ちょうどその頃、その地域のユースサッカークラブ、シズルFCで、後年サッカー殿堂入りするジョン・ハークスと切磋琢磨した。ラモスとハークスはユース年代のアメリカ代表として共にプレーした。2人は2005年に同時に殿堂入りしている。 ラモスは全米高校選抜に2度選ばれ、1983年にはパレードマガジンの国内高校最優秀選手になっている。その年、彼の所属するセイント・ベネディクト高校はニュージャージー州選手権を勝ち取った。高校最終年には、高校生活161ゴールのうち57ゴールを挙げ、これは州の記録となっている。1999年には、スターレッジャー(英語版)紙による、1980年代のニュージャージー州のトップテンプレイヤーとして彼の名を記している。 サッカー以外では、高校生活中に室内トラック競技をもこなしている(60ヤード走と4x100メートル走)。 1984年に北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスがドラフト会議1巡目(10番目)で引き当てたが、彼は大学へ進学することを選んだ。NASLはその約半年後にリーグを打ち切った。
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