ユークトバニア本土での戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 03:05 UTC 版)
「環太平洋戦争」の記事における「ユークトバニア本土での戦い」の解説
オーシア軍は将兵から英雄視されていたウォードッグ隊が戦場から姿を消したことで士気が低下し、シーニグラードの目前に迫りながらも首都攻略は頓挫した。12月9日時点でユークトバニア軍はシーニグラードに迫るオーシア軍の後方を遮断するようにクルイーク要塞後方を北と西から挟み込む動きを見せ、16日時点でオーシア軍はクルイーク要塞後方を塞がれユークトバニア軍に包囲されたものの、29日時点で包囲を破り後方を確保した。オーシア軍はシーニグラードの攻略を成功させることなく31日に終戦を迎えた。 ザカートから北東部では12月9日までにオーシア軍は支配領域を広げることに成功し、終戦まで概ねこれを維持した。 12月6日時点では維持されていたユークトバニア領中部から南西部にかけての戦線は9日時点で大きな動きを見せていた。イクヴァタル市から西にかけてオーシア軍は一気に支配領域を広め、南西の一部では国境まで達し南西部のユークトバニア軍を孤立させた。中部のユークトバニア軍は一部失地を奪還したがその後膠着状態が続き、イクヴァタル市まで到達できず31日に終戦を迎えた。孤立した南西部のグニズド周辺のユークトバニア軍は南西の国々との国境間際まで追い詰められたが、そのまま31日に終戦を迎えた。 北東部のユークトバニア軍は12月16日までにオクチャブルスク南東の半島の北部を奪還しつつ、さらに南方のソーンツァ方面へ進撃した。22日までにソーンツァ一帯を奪還したが、そのまま31日に終戦を迎えた。
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