ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキ
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ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキ(ウクライナ語: Ієре́мія-Миха́йло (Яре́ма) Кори́бут Вишневе́цький)、イェレミ・ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィェツキ[1](ポーランド語: Jeremi Michał Korybut Wiśniowiecki)、1612年8月17日[2] – 1651年8月20日)は、ヴィシュネヴェーツィ、ルブヌィ、ホロールに知行地を持っていたウクライナの公である。ポーランド・リトアニア共和国に仕えるルーシ・リトアニア系の古い貴族の家系であるヴィシニョヴィエツキ家の家長で、当代きってのマグナートであった。コルィーブトは紋章の名称。軍事に秀で、1646年からルーシ県長官を務めたほか、プシェムィシル、プシャースヌィシュ、ノヴィ・タルク、ハーデャチ、カニウの長官を歴任した。ウクライナの歴史家ミハイロ・フルシェフスキーによれば、彼はその時代においてウクライナ・ポーランドはおろか、全ヨーロッパで一番の富裕な貴族であったという。今日のポルタヴァ州と周辺州の一部に当たる広大な地域がヴィシニョヴィエツキ領(Вишневе́ччина)と呼ばれた。
- ^ イェジ・ルコフスキ/フベルト・ザヴァツキ著、河野肇訳『ポーランドの歴史』創土社、2007年ではヴィシニョヴィェツキ、ステファン・キェニェーヴィチ編、加藤一夫/水島孝生共訳『ポーランド史』恒文社、1986年ではヤレマ・ヴィシニョヴェツキ、伊東孝之/井内敏夫/中井和夫編『新版世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998年ではヴィシニョヴィエツキと表記。
- ^ Ilona Czamańska Wiśniowieccy - monografia rodu, Poznań 2007 ISBN 978-83-7177-229-0 (ポーランド語)
- ^ Щербак В. О. Вишневецький Ярема // Енциклопедія історії України — С. 519. (ウクライナ語)
- ^ Ярема Вишневецький застерігає у заповіті 1651 р. про непорушність православного храму Вишневецького замку, «gdzie depositoria ciał rodziców moich zostawają», наказуючи утримувати його «w pożądku wszelakim, poprawach structury swojej i innych pobożnych respektach». Заповіт опубліковано Владиславом Томкевичем: Misięcznik Heraldyczny. — Lwów, 1930. — R. 3. — S. 67-77. Підтвердження кн. Яремою фундацій своїх батьків задніпровським православним монастирям див.: Tomkiewicz W. Jeremi Wiśniowiecki (1612-1651). — Warszawa, 1933. — S. 109. Наталя ЯКОВЕНКО. Релігійні конверсії: спроба погляду зсередини // Наталя ЯКОВЕНКО. ПАРАЛЕЛЬНИЙ СВІТ. Дослідження з історії уявлень та ідей в Україні XVI-XVII ст. Київ 2002. (ウクライナ語)
- 1 ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキとは
- 2 ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキの概要
- 3 脚注
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