メディアとの外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:25 UTC 版)
エサルハドンの治世にはメディア人の多くがアッシリアの臣下となった。前676年以前のいずれかの年に、エサルハドンの軍隊はメディアの王エパルナ(Eparna)とシディルパルナ(Shidirparna)をビクニ山(Bikni、メディア中央部のどこかにあった山。正確な位置は不明)付近で破り、アッシリアがメディアを脅かし得る大国であることをメディア人に証明した。この勝利の結果、メディア人の多くは争ってアッシリアに忠誠の誓約を立て、ニネヴェに貢納を納め、エサルハドンが彼らの地にアッシリア人の総督を置くことを認めた。 エサルハドンがアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの継承に関する望みを守るため臣下たちに誓約をさせた時、アッシュルバニパルたちへの忠誠を誓った臣下の幾人かはメディアの支配者と君侯たちであった。エサルハドンとメディアの関係は常に平和的なものであったわけではなく、遅くとも前672年までにはメディア人がアッシリアに対する襲撃を行ったことが記録されており、メディアはアッシリアの潜在的な敵としてエサルハドンの卜占の問いかけで恒常的に言及されている。メディアにおけるエサルハドンの主たる敵はアッシリア人がカシュタリティ(英語版)と呼んだ人物である。彼はアッシリアの領土を襲撃していた。この人物は恐らくメディアの2代目の王フラオルテスと同一人物である。
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