マッチメイク破り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:58 UTC 版)
「スタニスラウス・ズビシュコ」の記事における「マッチメイク破り」の解説
この当時にはプロレス業界は徐々に「ジョブ」へのシフトを始めていた。スタニスラウスは、エド・ストラングラー・ルイス、ビリー・サンドウ、トゥーツ・モントが作ったプロモーションである「ゴールド・ダスト・トリオ」のプロモートによりアメリカでの活動を始める。すでに40代前半になっていたスタニラウスは、1921年5月6日に世界タイトルマッチでルイスを破るも興行的には失敗。1922年3月3日にタイトルをルイスに明け渡した。この頃、意見の不一致によりジョー・ステッカー(英語版)はゴールド・ダスト・トリオのプロモーションから分離し、別のプロモーションを興したが、スタニラウスは「ゴールド・ダスト・トリオ」に残ることになった。 「ゴールド・ダスト・トリオ」は元フットボール選手のウェイン・マンを新しいチャンピオンとして売り出そうと考え、マンを売り出すため、実力者であるスタニラウスにマンが勝つブックを考え、ズビスコもそれを了承する。ところが、スタニラウスはジョー・ステッカーのマネージャーであるトニー・ステッカーから、「ブック破り」の依頼を密かに受け了承し報酬を貰い、1925年4月15日に行われたタイトルマッチでマンにシュートを仕掛け、シュートの実力で劣るマンを一方的に攻めた上で勝利し、王者となってしまう。この試合は旧NWAの世界タイトルマッチの体で行われた中での出来事であったため、スタニラウスは関係者から危険人物とみなされるようになったが、一方で事情を知らない一般のファンからは多大な人気を集めた。この反省を活かして旧NWAはシュートに対応できる実力者を王者にするようになったと言われている。なお、この試合は「マッチメイク破り」としては史上最古の例と伝わっている。
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