マガジンでの連載開始からサンデーへの移籍まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 00:00 UTC 版)
「W3事件」の記事における「マガジンでの連載開始からサンデーへの移籍まで」の解説
手塚は『週刊少年マガジン』からの依頼を受け、アニメに先行して1965年(昭和40年)13号(3月21日)から同誌に漫画版を連載することになり、手塚の連載漫画獲得という『週刊少年マガジン』にとって創刊以来の悲願が叶えられたかに見えた。しかし、森永が『少年マガジン』と『ソラン』双方のスポンサーであった絡みで、手塚にとって因縁の『ソラン』もマガジンに掲載されることになってしまった。それを知った手塚は、『ソラン』の連載中止を『少年マガジン』編集部に申し入れたが受け入れられなかったため、『少年マガジン』への連載を6回で打ち切り、設定を一部変えてライバル誌の『週刊少年サンデー』で『W3』の連載を始めてしまう。これについて、手塚は講談社側から打ち切りを言い渡されたとしているが、当時『少年マガジン』編集者であった宮原照夫は、『少年マガジン』側が和解の道を探っている最中に手塚が一方的に『少年サンデー』に話をつけてしまったと述べている。 ちなみに、漫画版『ソラン』を担当したのは手塚の弟子であった宮腰義勝であり、宮腰は本件についてみなもと太郎から訊ねられた際に「……いやもう、何がなにやらサッパリわからんのですわ」と答えている。
※この「マガジンでの連載開始からサンデーへの移籍まで」の解説は、「W3事件」の解説の一部です。
「マガジンでの連載開始からサンデーへの移籍まで」を含む「W3事件」の記事については、「W3事件」の概要を参照ください。
- マガジンでの連載開始からサンデーへの移籍までのページへのリンク