ホーク基地の跡地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:20 UTC 版)
「羽地陸軍補助施設」の記事における「ホーク基地の跡地」の解説
施設返還後は、「いこいの村」として保養施設が整備され利用されていたが、後に名護市から委託運営されていた民間の「ホテル・タニュー」も閉館した。そこにはホークの発射台と、そのさらに奥の山中には米軍が構築した巨大な鉄筋コンクリートのバンカーが草木に覆われた状態で残っている。 沖縄戦の後に再び土地を強制接収され、長い間住民に苦しみと恐怖を与えてきた沖縄の米軍ミサイル基地は、その多くが自衛隊基地の高射隊の拠点として移管されるか、返還された後は米軍占領時代の象徴として解体されるか、そのどちらかであった。そのため、冷戦の負の遺産としてのメースB、ナイキ・ハーキュリーズ、ホークミサイルの基地遺構は、日米の機密事項とされた歴史とともに、そのほとんどが形なく撤去されされるか、自衛隊に移管され基地のなかに囲い込まれている。 今のところ民間地で唯一現存しているミサイルサイトの遺構は、恩納サイトで博物館として一般公開されているメース基地跡地か、多野岳に見られるホーク基地のコンクリート跡しかない。また陸軍中野学校の将校が指揮した少年ゲリラ部隊の護郷隊の戦跡はキャンプ・ハンセンやキャンプ・シュワブのなかにある。多野岳にある第一護郷隊の戦争遺構とともに、ホークミサイルの遺構も、冷戦と核兵器配備の歴史を現在に伝える遺構として保存されることが待ち望まれる。
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