ホイサラ朝の独立とカーヴィリ川下流域への介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/12 02:15 UTC 版)
「ホイサラ朝」の記事における「ホイサラ朝の独立とカーヴィリ川下流域への介入」の解説
ヴィシュヌヴァルダナの孫バッラーラ2世のとき、チャールキヤ朝は封臣のカラチュリ家に首都のカリヤーニを20数年間も占領されるような状況であった。 後期チャールキヤ朝のソーメーシュヴァラ4世はやっとのことで1183年、ヤーダヴァ朝の攻撃で弱まったカラチュリ家からカリヤーニを奪還して即位した。だが、まもなく自らもヤーダヴァ朝の攻撃をうけて南遷せざるを得なかった。バッラーラ2世はこれを機に、1189年に後期チャールキヤ朝のソーメーシュヴァラ4世を滅ぼした。 また、バッラーラ2世は勢いに乗るヤーダヴァ朝のビッラマ5世を破って撃退、ヤーダヴァ朝のカーヴェリ川上流域への南進を阻止し、ヤーダヴァ朝が奪ったチャールキヤ領の南半分を獲得した。ここに、後期チャールキヤ朝の版図は北西部はヤーダヴァ朝、南西部はホイサラ朝、東側は、東方の現アーンドラ・プラデーシュ州ワランガルを本拠とするカーカティーヤ朝によって分割された。 13世紀、チョーラ朝とパーンディヤ朝の抗争の激化に伴い、バッラーラ2世の息子ナラシンハ2世はチョーラ朝と同盟し、カーヴェーリ川下流域のタミル地方に進出するようになった。 13世紀中ごろ、ナラシンハ2世の息子ソーメーシュヴァラは次子のラーマナータとともに、チョーラ朝の中心地たるシュリーランガムに近いカーヴェーリ川下流北岸のカンナヌールを本拠として、侵入してくるパーンディヤ朝、カーカティーヤ朝と戦った。そのため、首都のドーラサムドラは長子のナラシンハ3世に任せきりになり、ホイサラ朝は二つの中心をもち、南北に2分されることとなった。このことは、のちの王位継承争いを引き起こすこととなった。
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