ペルー日本大使公邸占拠事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 16:31 UTC 版)
「青木盛久」の記事における「ペルー日本大使公邸占拠事件」の解説
1996年11月に、ペルーの極左テロリストグループのトゥパク・アマル革命運動によって行なわれたペルー日本大使公邸占拠事件に遭遇し、ペルー政府要人や在ペルー日本企業の駐在員らとともに127日間の人質生活を体験する。当初は、自分のみが人質になる代わりに他の全ての人質を解放するよう、犯人側に依頼したものの拒否された。 その後、1997年4月22日に当時のペルー大統領アルベルト・フジモリの決断で大使公邸までのトンネルが掘られ、地下から公邸に特殊部隊を突入させ、犯行グループは全員射殺された。この際、特殊部隊の2名と、人質であったペルー最高裁判事が死亡した。青木は救出時に胸や足に重傷を負ったものの、人質の大使館員やペルー政府要人、日本企業の駐在員らと共に救出された。 大使として人質全員の解放の身代わりになることを依頼するなど、自らの身を顧みない行動をとり、結果的に日本人の人質に死者が出ることはなかったものの、解放後の記者会見時に喫煙したことが日本国内の一部のマスコミに問題視されたほか、占拠時の公邸内での言動に対して一部の日本人人質から批判が出たことから、同年5月13日の国会での参考人招致時に辞意を表明した。
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