ベンガルに対する遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 14:22 UTC 版)
「ラグージー・ボーンスレー」の記事における「ベンガルに対する遠征」の解説
1741年3月、オリッサ太守ルスタム・ジャングがベンガル太守アリーヴァルディー・ハーンに敗れ、オリッサを奪われた。その後、ルスタム・ジャングはラグージーに援助を求めた。 これにより、ボーンスレー家は毎年のようにベンガル太守の支配していたベンガル、ビハール、オリッサを襲撃し、滅ばない程度にこの地方の豊かな物資を奪い続けた(マラーターのベンガル遠征)。 同年12月、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオはベンガルに触手を伸ばす形で、同地方に向けて遠征を行った。だが、ラグージー・ボーンスレーはベンガルを自己の行動範囲と見なしていたので、両者の間に争いが起こった。バーラージー・バージー・ラーオはヴァーラーナシー・ガヤーなどヒンドゥーの聖地を訪れ、聖地巡礼もかねて遠征を行った。 結局、この争いはマラーター王シャーフーによってサーターラーで調停が行われ、1743年8月31日にベンガルはラグージー・ボーンスレーの活動範囲とされた。 1751年5月、ラグージーがベンガル太守が講和条約を結んだとき、ボーンスレー家はベンガル地方とオリッサ地方のチャウタ支払いを獲得した。その後すぐ、条約を無視してオリッサを併合し、この地方はボーンスレー家の領土となった。 このように、ラグージーの治世に、ボーンスレー家は広大な版図を領し、マラーター同盟を構成する有力諸侯の一つとなっていた。
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