プライドのパージと共和政成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 16:43 UTC 版)
「イングランド内戦」の記事における「プライドのパージと共和政成立」の解説
詳細は「w:High Court of Justice for the trial of Charles I」を参照 第二次イングランド内戦は半年であっけなく鎮圧され、国王との和解が不可能であることが平等派だけでなく独立派にも認識されるようになった。また、当時内戦による統制の失効で出版物が大量に出回るようになっており、パンフレットやニューズブック類、説教での主張や議論を通し、チャールズ1世の裁判の前に国王の死という運命が徐々に形成されていった。いまだ国王との和解を諦めていない長老派を主流とする議会にクロムウェルもようやく見切りをつけ、1648年12月6日、プライド大佐は一隊を率いて議会に乱入し長老派議員を議会から締め出した(クロムウェルは北イングランドにいたため不在)。これが『プライドのパージ』とよばれる軍事クーデターであり、残った五十数名の議員のみからなる下院(ランプ議会)を承認した。 ランプ議会は翌1649年1月から国王チャールズ1世の裁判を開始し、27日に死刑の判決が下り、30日にチャールズ1世は処刑された。貴族院が廃止され、5月13日にバンベリーで平等派が扇動した軍の反乱が鎮圧されて5月17日に首謀者が処刑され、5月19日に共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)の樹立を宣言した。一方、2月5日にチャールズ1世の処刑をうけて、チャールズ2世の即位がスコットランドで宣言された。
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