ブラジリアン柔術創設への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 08:42 UTC 版)
「前田光世」の記事における「ブラジリアン柔術創設への影響」の解説
1917年にガストン・グレイシーの子どもの1人で、当時14歳のカルロス・グレイシーが、パズ劇場で前田による実演をみて、前田から柔術を習うことにした。当時前田の柔術はブラジルで嘉納柔術として知られていた柔道か他の柔術であった。前田はカルロスを弟子に迎え、カルロスはすぐに頭角を現した。1921年にガストン・グレイシーは家族と共にリオ・デ・ジャネイロに転居した。カルロスはわずか17歳にして兄弟のオズバルド、ガストン、そしてジョルジの師となった。当時はまだ末弟のエリオは練習をするには幼すぎ、また健康上の理由で医師に練習に参加することを禁じられてもいた。しかし後にエリオも練習に参加し、健康上の問題を克服してカルロスと共にグレイシー柔術を創設するに至った。グレイシー柔術は近年はブラジリアン柔術として知られている。エリオは直接前田に習った訳ではないが、更に改良し、誰にでも使いこなせる術(すべ)として技術体系を完成させた。エリオ・グレイシーもまた、前田と同じ様に自分の流派(グレイシー柔術)を広めるため後に異種格闘技戦を行い、柔道家の木村政彦とも闘う事となった。 前田の弟子の中には後にオズワルド・ファッダの師となったルイズ・フランサもいた。ルイズとオズワルドもまたブラジルの柔術の別の流派を代表する人物となった。前田派はブラジル柔道創世期における四大派閥の1つだった。
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