ブキャナン文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:04 UTC 版)
「メアリー (スコットランド女王)」の記事における「ブキャナン文書」の解説
メアリーに関しては、同時代の人文学者で歴史家であるジョージ・ブキャナン(1506 - 1582)が書いた文書が知られる。彼は、ダーンリー卿の生前からのメアリーとボスウェル伯との不倫を自分の文書の中で主張している。その一例としてこんな文書がある。1566年の10月16日、メアリーはイングランド国境に近い、エディンバラ南東部のジェドバラという町の付近を荒らし回っている盗賊団について、国境警備指揮官のボスウェル伯と話し合うため、マリ伯他数人の臣下達と共にボスウェル伯のいるハーミテージ城に向かい、そこに2時間足らずの間滞在している。ブキャナンはこの日のこの出来事について、「この時すでに、メアリー女王はボスウェルの愛人で、女王はハーミテージ城ではその名誉と身分にあるまじき恥ずべき行為をおこなった」と文書に書き残している。 しかし、ボスウェル伯はこの8日前にジェドバラの盗賊団と戦い、盗賊団の首領は倒したものの、頭と右肩と左腕に重傷を負っていた。この時、すでに彼は出血多量により意識不明になっていて、助かるかどうか微妙な容態であったという。そのため、もうボスウェル伯は死んでしまったのではないかと考える人々も多かったという。ボスウェル伯は担架で近くのハーミテージ城に運ばれた。この知らせは瞬く間に広がり、スペイン大使はメアリーに深い同情を寄せてこう言っている。「もはやスコットランド女王は頼みの綱を失ってしまった。あれほどの人物はめったにいるものではないというのに」しかしこのボスウェル伯の死は誤報だとわかり、周囲の人々は安心したという。 ブキャナンは後にメアリーの敵対者側に寝返っている人物で、メアリーの敵対者達の依頼を受けて、このようなメアリーに関する事実と異なると思われる誹謗文書を多く作成しているため、現在のメアリーに関する悪評は差し引いて考える必要があると思われる。
※この「ブキャナン文書」の解説は、「メアリー (スコットランド女王)」の解説の一部です。
「ブキャナン文書」を含む「メアリー (スコットランド女王)」の記事については、「メアリー (スコットランド女王)」の概要を参照ください。
- ブキャナン文書のページへのリンク