フレデリク5世の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:37 UTC 版)
「エーダム・ゴトロプ・モルトケ」の記事における「フレデリク5世の治世」の解説
フレデリク王子は1730年のクリスチャン6世即位により王太子になると、すぐにモルトケを宮内長官(英語版)に任命、さらに多くの栄典を与えた。モルトケは枢密顧問官に任命され、1747年にブレーイントヴィズ(英語版)の領地を与えられ、1750年に伯爵に叙された。 モルトケはフレデリク5世の寵臣として権勢をふるい、外国の外交官は彼が大臣の任免を牛耳できると結論付けたほどだった。中でも特筆に値するのはフレデリク5世の治世に政治を主導したヨハン・スィーギスモント・シュリン(デンマーク語版)とヨハン・ハルトヴィヒ・エルンスト・フォン・ベルンシュトルフへの態度だった。モルトケはシュリンを尊敬し、ベルンシュトルフにはイラついたが、プロイセン王国がベルンシュトルフを引きずり降ろしてモルトケを据えようと陰謀をめぐらしたにもかかわらず、モルトケはベルンシュトルフが適任だとしてベルンシュトルフを支持し続けた。 モルトケが任命された宮内長官の職はそれまではただの宮廷職だったが、彼は職務上朝から夜までフレデリク5世の側にいることができた。フレデリク5世が考えつくことをモルトケに話したため、モルトケは思う存分影響力をふるうことができた。例えば、彼はフレデリク5世の乱行パーティー(英語版)が王家の名声に悪影響を与えないよう配慮した。 モルトケの政見は同時代の人々より保守的だった。彼は奴隷解放を目指す全ての計画を怪しんでみたが、デンマーク=ノルウェーの大地主の1人として、田舎の農民への重圧を軽減し、技術と科学による改進を導入して生産量を増大させた。しかし、彼の貢献は何よりもフレデリク5世への影響である。 王妃ルイーセ・ア・ストアブリタニエンが1751年に死去すると、モルトケはフレデリク5世がモルトケの娘との結婚を申し出ると予想して、予めそれを拒否した。彼は代わりにフレデリク5世の再婚を計画、フレデリク5世は結果的に1752年7月8日にフレデリクスボー城でブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘ユリアーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイクと結婚した。
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