フメリニツキーの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「フメリニツキーの死」の解説
対ポーランド・リトアニア共和国の戦争が成功すればするほど、同盟者であったコサック国家、スウェーデン王国とロシア・ツァーリ国とのあいだに対立が起こり始めた。フメリニツキーはウクライナ人が居住する全地域をコサック国家の支配下に置こうとしたが、スウェーデン側は西ウクライナのガリツィア地方を自国領にするつもりであったため、コサックの要求を却下した。また、南ベラルーシには実際にコサックの連隊行政制が設置されていたにも拘らず、ロシア側は当地方がロシア・ツァーリ国のものであると主張した。 同盟者との対立が激しくなっていく中、ロシア・ツァーリ国はスウェーデンの強化を警戒して1656年5月にスウェーデンへ戦争宣告した。そして、ポーランド・リトアニア共和国に和平を提案し、8月22日にヴィリニュスで和平交渉を開始した。その交渉にはロシア側とポーランド・リトアニア側の使節団が参加したが、派遣されたコサックの使節団の参加はロシア側の要望によって拒絶された。それを知ったフメリニツキーはロシア・ツァーリ国の保護から離れる決意をし、11月に一方的にトランシルヴァニア、ワラキア、モルドバ、オーストリア、クリミア、ポーランド、オスマン帝国と外交関係を復活させ、スウェーデン軍へアンチーン・ジュダノーヴィチが率いる2万人のコサック軍を援軍として遣わした。 しかし、ロシア・ツァーリ国との国交を絶つには時勢が不利であった。フメリニツキーは重い病にかかり、1657年の初めに彼の跡継ぎに決定された子息ユーリイは16歳ばかりの未熟な青年であった。コサック内部には親ロシア派、親ポーランド派、親オスマン派などの派閥ができ、ウクライナ国内は十分に統一されていなかった。こうして、ウクライナが敵意を抱く勢力に囲まれていく中、同年8月6日にフメリニツキーが脳梗塞で倒れて死去した。彼の権威によっておさえられていたコサック長老たちの不和が顕在化し、隣国に操れてお互いに戦をし始めた。フメリニツキーの乱が終わり、その乱の中で築かれたコサック国家は「荒廃」とよばれる衰退期に入った。
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