フィリップスによる襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 19:40 UTC 版)
「ブランフォードの戦い」の記事における「フィリップスによる襲撃」の解説
フィリップスはその後ほとんど無防備の田園部に進行した。ストイベン男爵の民兵隊がその進行を妨げようとし、リッチモンドとピーターズバーグを守っていた。ストイベンはイギリス軍が以前のようにリッチモンドを攻撃する可能性を考えたが、ピーターズバーグはバージニアにとっても大陸軍にとっても軍事補給地として機能していたので、ピーターズバーグを主標的にするに違いないと判断した。4月23日までにイギリス軍はジェームズ川を遡ってウェストオーバーに達し、そこで上陸すると約500名の民兵隊を蹴散らし、ストイベンにはイギリス軍の勢力が2,500から3,000と伝わるようにさせた。 4月24日午後にミューレンバーグのバージニア民兵隊約1,000名がピーターズバーグに向かった。他の民兵隊も集まりつつあった。ラファイエットの部隊はまだ数日の行程にあり、アンソニー・ウェイン将軍の部隊はさらに遠くにいた。ストイベンとミューレンバーグはその勢力が少なく実戦経験も無かったのでイギリス軍との衝突を避けてきていたが、このときは幾らかの抵抗を試みる時だと判断した。イギリス軍がバージニアに入ってきて以来、民兵隊には勝利の経験が無かったので、その士気は極めて低かった。ストイベン達は作戦会議を開いた後、当時はピーターズバーグとは別の町であり現在ではピーターズバーグの1地区になっているブランフォードに防衛線を布くことにした。必要な場合にはポカホンタス橋を経てアポマトックス川を越えて退却することができた。その夜、ストイベン将軍はミューレンバーグの部隊にアポマトックス川の北岸、ポカホンタス島と呼ばれる半島の川を見下ろす高台に移動するよう命じた。この夜は月が無く、ストイベンとミューレンバーグは川の南、ブランフォードに部隊を移動させた。
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