ファリサイ派の専横
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 00:51 UTC 版)
「サロメ・アレクサンドラ」の記事における「ファリサイ派の専横」の解説
夫の遺言に従い、弾圧されていたファリサイ派との和解を果たし、民衆に影響力を及ぼしていたファリサイ派の権勢はますます高まった。エジプトに亡命していたシモン・ベン・シェタハを呼び戻し、サンヘドリンの議長に任命した。ハスモン朝を敵視していたファリサイ派との和解は、一応国内に安定をもたらしたものの、息子たちの権力争いや重税に対する民衆の不満は募りつつあった。記録によれば、「肝臓くらいの大きさの麦の穂、オリーブの実ほどの大麦の実」、「金のつぶのようなレンズ豆」など豊富な収穫物に支えられ、富裕な生活を送っていたと言われ、穀物の3分の1、果樹園・ブドウ畑の収穫の半分を受け取る権利を持ち、塩税など間接税による負担も民衆には苦痛であったと思われる。 ファリサイ派は、ヤンナイオス時代に自分たちを弾圧した人々に報復し、ディオゲネスらを殺害した。このため、反ファリサイ派はアリストブロスを先頭に反発し、彼らにヒュルカニア、アレクサンドレイオン、マカイロスを除く要塞の守備を任せることになった。 アルメニアの王ティグラネス2世がシリアのセレウコス朝支配を目指し進軍してくると、使者を送り友好関係を確認した。結局、ティグラネスは共和政ローマとの戦いのため帰国し、事なきを得た(紀元前69年頃)。
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