ピーボディとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/27 01:54 UTC 版)
「ジューニアス・モルガン」の記事における「ピーボディとの関係」の解説
現在の「モルガン」と名のつく銀行の直接の源は、ロンドンのジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニー(ジョージ・ピーボディ商会)である。アメリカ有数の銀行家であったピーボディは独身で、血縁者を後継者にするのが当然であった当時において後継者問題に悩んでおり、「家族持ちで、外国との取引経験があり、交際上手なアメリカ人」であることを望んでいた。そこでJames Madison Beebe (1809-1875) がジューニアスを推薦した。1853年にジューニアスはピアポントらを伴って渡英し、ピーボディに面会。ピーボディは事業をジューニアスにとって好条件で禅譲することを伝えた。しかし、ジューニアスは慎重に財務内容を判断した上で、1854年10月、ピーボディのパートナーとなり、ロンドンに移住した。 1857年、恐慌が起こる。ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーは危うく倒産の危機に見舞われる。南北戦争のころからピーボディは慈善事業に傾倒し、蓄えてきた莫大な財産をすごい勢いで放出した。1864年にはピーボディは事業から完全に退くが、その際、自分の名前を後世に残すとしたら肩書きは慈善事業のみ、と考えて商号等をモルガンに残すという約束を反故にする。同年、やむを得ずジューニアス・スペンサー・モルガン・アンド・カンパニーと改称した。のち、1910年にはパートナーの名前を入れ、投資銀行モルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー(モルガン・グレンフェル銀行)となり、1989年にドイツ銀行に買収されるまで存続した。
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