パルマ時代・2002年W杯(2001年-2003年)
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2001年、パルマは獲得を目指していたルイ・コスタがACミランに移籍した事もあり中田を獲得。移籍金は当時アジア人選手最高額の約33億円にのぼった。レンツォ・ウリヴィエリ監督の下、トップ下でプレーしたが、高額な移籍金に見合うパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリの更迭後は監督が次々と交代し、レギュラー争いの日々となっていった。一方、イタリア杯では準決勝のブレシア戦で1ゴール1アシスト、決勝のホームアンドアウェイ方式で行われたユヴェントスFCとの第1戦で1ゴールをあげた。チームは1-2で第1戦を落としたが続く第2戦でパルマが1ゴールをあげ合計2-2となり、結果的にアウエーゴール方式によりパルマの優勝が決まった。これがパルマ最後のタイトルとなっている。 25歳で記念すべき地元開催となった2002年日韓W杯に出場。精神的にもチームを牽引する中心選手として、グループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。グループリーグのチュニジア戦では、ヘディングで自身のW杯初ゴールを記録した。 2002-03シーズンから指揮をとったチェーザレ・プランデッリ監督には右サイドハーフでレギュラーとして起用される。アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に構成された攻撃陣はイタリアメディアから『トリアイナ(三叉の槍)』と称される高い攻撃力を発揮し、中田は敵地でのユヴェントス戦で先制点を決めるなどユヴェントス・キラーとしても賞賛された。しかしシーズン後半になると、手数をかけずFWに預ける守備的なチーム戦術へ変更された影響を受け、中田は攻撃よりも右サイドでの守備に奔走することを求められていった。
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