バビロニアの攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 07:16 UTC 版)
「前1200年のカタストロフ」の記事における「バビロニアの攻防」の解説
メソポタミアでは前1155年、カッシト朝がエラムによって滅ぼされたが、翌年、イシン第2王朝が勃興、その王であるネブガドネザル1世はエラムに侵攻して短期間ながらスーサを支配した。しかし、ネブガドネザル1世の死後、アラム人らが侵入を開始、バビロンを代表とするバビロニアの諸都市は壊滅的打撃を受けた。そして第2海の国、バジ王朝、エラム王朝などが勃興を繰り返したが、これ以降、バビロニアは事実上、暗黒時代を迎えた。 その一方でエラムは隆盛期を迎えており、ウンタシュナピリシャ (en) がチョガザンビルに巨大なジッグラトを建設、さらには前12世紀末、シュトルクナフンテ (en) がメソポタミアを攻撃、ハンムラビ法典を代表とする戦利品をスーサに運び去り、その子、クティルナフンテ(de)はイシン第2王朝を攻め滅ぼした。
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