デュルケームとエスピナス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 00:09 UTC 版)
「アルフレッド・エスピナス」の記事における「デュルケームとエスピナス」の解説
ボルドー大学において、エスピナスはデュルケームの前任者であるだけでなく、デュルケームの着任に尽力したことが知られている。またデュルケームが着任した際の最初の講義「社会科学講義」のなかでエスピナスを、「彼は、壮大な哲学体系の対称性を保証するためではなく、科学をつくりあげるために社会的事実を研究した最初の人である」と位置づけ高く評価した。しかしエスピナスは、デュルケーム学派に対してのみ接したわけではなく、より学際的な色合いの強いルネ・ウォルムスを中心とした「国際社会学協会」に所属した。さらに、デュルケームの論敵の一人であるガブリエル・タルドに対して、「私の考える社会的事実というものがあるのならば、あなたのいうところの”模倣”のことである」とタルドの『模倣の法則』を激賞する手紙を送る関係にもあるなど、エスピナスとデュルケームの関係はアンビバレントなものであった。また、デュルケームが狙っていたパリ大学のキャリアをエスピナスが得たこともあり、デュルケムは甥のマルセル・モースに対し、「エスピナスとは距離をとるように」と忠告することもあった。
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