チャールズタウン封鎖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 14:47 UTC 版)
1718年5月までにティーチは自分自身に提督(Commodore)の地位を与え、権勢は最高潮に達していた。その月の後半に彼の艦隊はサウスカロライナ植民地(正確にはまだカロライナ植民地)のチャールズタウン(現在のチャールストン)の港を封鎖した。港を出入りするすべての船舶は止められ、街には警備船が無かったために最初に水先案内船が拿捕された。その後、5-6日の間に、海賊団が停泊していたチャールズタウン・バー(街から南東約8マイルに広がる砂州)を超えようとしたおよそ9隻の船が拿捕された。その内の1隻は、サミュエル・ラッグ(カロライナ植民地の評議会のメンバー)を含む著名なチャールズタウンの市民グループを乗せたクローリー号であった。船の乗客たちは港に停泊している他の船について聴取され、そして約半日ほどデッキ下に閉じ込められた。ティーチは人質たちに、自分たちが医療品を必要としていてサウスカロライナ植民地政府に要求すること、もし要求が拒否された場合には、すべての人質を処刑して、その首を総督に送りつけ、拿捕した船もすべて焼き捨てると伝えた。 ラッグがティーチの要求に同意したため、人質の代表マークス氏と2人の海賊が薬を集めるのに2日の猶予を与えられ街へ向かった。ティーチは彼の艦隊と拿捕した船を陸から約5-6リーグ以内に移動させた。マークスの船は途中で転覆してしまったがためにチャールズタウンに連絡が届くのは遅れ、艦隊へマークスからの返答が届いたのは3日後であった。ティーチはさらに2日の猶予を与えたが、送り出した者たちは戻ってこなかった。そのため、ティーチは仲間たちに連絡して8隻の船を港へと乗り入れさせ、街はパニックに陥った。マークスはようやく艦隊に戻ると、何があったかを釈明した。街に到着すると彼はすぐに総督に海賊の要求を伝え、薬はすぐに集められた。ところが、一緒に送られた2人の海賊が見つからなかった。彼らは仲間と酒を飲むのに夢中になっており、見つけた時には泥酔していたという。 ともかくティーチは交渉内容を守り、拿捕した船と人質たちを無事に解放した。もっとも、彼らの上等な服を含む貴重品は一部しか返さなかった。
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