チェコスロバキア解体の芽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:30 UTC 版)
「プラハの春」の記事における「チェコスロバキア解体の芽」の解説
軍事介入によって改革目標の多くが頓挫する中、唯一実現されたのが連邦制の導入だったことは、少なからずチェコとスロバキアの間に亀裂を生じさせた。つまり民主化・自由化を犠牲にして連邦化という民族的利害の実現を優先させたという意識がチェコ人の改革派で持たれるようになった。この意識は、スロバキア人のフサークが「正常化」路線を推し進め、改革派やそのシンパに対する弾圧を強化し、経済資源を重点的にスロバキアに配分し、その工業化を進めたことによってさらに強まった。1977年に出された「憲章77」運動においても、その中心を担ったのはチェコ人であった。このようなチェコとスロバキアの政治主導層の認識の相違は、1989年のビロード革命後の移行政策をめぐる対立にも反映され、1993年の連邦解体につながる遠因となった。
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