ターボル派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:43 UTC 版)
15世紀初頭の10年間に、ウィクリフ主義はボヘミアの土壌に移植されて広まった。ウィクリフ主義はフスの死までに、いわゆるフス主義として維持され、それからウトラキストに転じ、さらにターボルを拠点とするターボル派につながった。 フスはコンスタンス公会議で「ウィクリフの聖餐に関する考えには賛同しない」と主張したが、それが事実かは確かでない。ボヘミアの土壌で、ウィクリフの聖餐論は広く受け入れられた。まず、主の晩餐についてのウィクリフの教義は、1399年にはプラハにも広まったと考える根拠がある。聖餐論は1403年に禁止されたが、その後もさらに広がりをみせ、フスもそれを説き教えていた。 ただし、フスはウィクリフの聖餐論を単に説明しただけで、賛同はしていなかったという可能性も考えられる。この後に、聖餐論の教義は急進的なターボル派の一党を強く惹きつけ、ターボル派の唱える教義の中核となった。 フスの支持者はフス派として知られる。フス死後もボヘミアではフスの人気は根強く、貴族たちの間では反カトリックの同盟が結成された。
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