セプティマニア喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 06:14 UTC 版)
「ウマイヤ朝のガリア侵攻」の記事における「セプティマニア喪失」の解説
15年のうちにイスラーム勢力はセプティマニアでの権威を回復した。しかし752年、カール・マルテルの息子でフランク王となったピピン3世がセプティマニア遠征を起こし、セプティマニアのゴート人もフランク王国側に寝返った。同年に彼はニームを落とし、最後のイスラーム勢力の砦であるナルボンヌの包囲に取り掛かった。この攻防戦中、彼の勢力拡大を恐れるアクィタニア公ワイファリがバスク人を率いてピピン3世の後方部隊を脅かすなど妨害を行ったことが記録されている。 ゴート人の法を尊重することを約束してゴート貴族の忠誠を勝ち取ったピピン3世は、759年についにナルボンヌを降伏させた。包囲戦中にアンダルスを奪取しコルドバ首長国を建てたアブド・アッラフマーン1世はセプティマニア救援や奪回に関心を示さず、ここにガリアにおけるイスラーム勢力は完全に駆逐された。またルシヨンを得たピピン3世は、その全力をアクィタニア方面に向けることができた。 ピピン3世の息子カール大帝はピレネー山脈以南に侵攻し、コルドバ首長国との緩衝地帯としてスペイン辺境領を設置した。この辺境領は、後にキリスト教勢力がイスラーム勢力を南へ押し返すレコンキスタの起点の一つとなった。
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