ジョゼフ・プレストウィッチとは? わかりやすく解説

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ジョゼフ・プレストウィッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/12 09:31 UTC 版)

ジョゼフ・プレストウィッチ
生誕 1812年3月12日
イギリスロンドン
死没 1896年6月23日 (満84歳没)
イギリスケント州、ショアハム
研究分野 地質学
研究機関 オックスフォード大学
出身校 ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
主な受賞歴 ウォラストン・メダル(1849年)
プロジェクト:人物伝
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サー・ジョゼフ・プレストウィッチ: Sir Joseph Prestwich1812年3月12日 - 1896年6月23日)は、イギリス地質学者実業家である。第三紀地質エキスパートで、ブーシェ・ド・ペルテ(英: Boucher de Perthesサン・アシュール(英: St Acheul遺跡石器の発見を確認したことでも知られる。

生涯

ロンドンの Pensbury に生まれた。パリ大学レディングで学んだ後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン化学自然哲学を学んだ。1830年から家業のワインの仕事を始め、仕事でイギリス各地やフランスベルギーを旅した。これらの旅行で地質の観察を行い、地質学に興味をもち1833年にロンドン地質学会の会員となった。1831年から1832年の間の観察に基づいて1836年に発表した、「コールブルックデール(英: Coalbrookdaleの地質」の研究で、地質学者としての高い評判を得た。

1846年からロンドン盆地の第三紀地層の研究を行い、イギリス全土、フランス、ベルギーの第三紀地層との関連を研究した。1858年に、ブーシェ・ド・ペルテが、石器を発見したと発表したサン・アシュールのソンム川洞窟を訪れることをヒュー・ファルコナーから依頼され、ジョン・エバンス英語版とともにペルテの発見を確認した。その報告は1859年から1860年になされ、科学的方法による考古学の始まりとされる。

1860年代は王立石炭委員会や首都上水道委員会の委員に任じられた。1874年にオックスフォード大学の地質学の教授となった。1849年にロンドン地質学会からウォラストン・メダルを受賞した[1]。1853年に王立協会の会員に選出され、1865年に王立協会ロイヤル・メダルを受賞した[2]。1896年にはヴィクトリア女王によりナイトに叙された[3]

関連項目

出典

  1. ^ Wollaston Medal” (英語). The Geological Society. 2011年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月2日閲覧。
  2. ^ "Prestwich; Sir; Joseph (1812 - 1896)". Record (英語). The Royal Society. 2012年5月2日閲覧
  3. ^ "No. 26701". The London Gazette (英語). 21 January 1896. p. 359. 2012年5月2日閲覧

外部リンク

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