ジャンビとの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)
上述の「三角戦争」のあいだ、ジョホール王国の内部ではスマトラ南東部のジャンビ王国が経済的にも政治的にも地域権力として台頭してきていた。1666年、ジャンビは、繁栄するジョホール王国の支配から脱却しようと試み、この年から1679年までの13年間、両者は戦争状態に陥った。この内戦の直接の原因は、ジョホール王国とジャンビ王国のあいだでの王室間の結婚が破約になったことであった。ジョホールの首都バトゥ・サワールは、戦争中の1673年、ジャンビ軍から略奪を受けている。それは2,500名におよぶ捕虜や黄金を奪うという大規模なものであり、王国にとって大きな災禍となった。王国の首都は、ジャンビからの攻撃を回避するために頻繁に移動せざるを得なかった。アブドゥル・ジャリル・シャー3世の治世(1623年-1677年)は長きにおよんだが、その間、王国を維持していくための努力として、権力の中心は、ペカン・トゥーアからジョホール・ラマ、セルユト、テナ・プテ、バトゥ・サワールそしてマカム・タヒドへと移動した。
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