ジナイーダ・セレブリャコワ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/31 07:58 UTC 版)
ジナイーダ・セレブリャコワ
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化粧台の前で・自画像(1909)[1]
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生誕 | Зинаида Евгеньевна Лансере 1884年11月30日 ロシア帝国・ハルキウ近辺 |
死没 | 1967年9月19日(82歳没) フランス・パリ |
著名な実績 | 絵画 |
代表作 | 赤いブランケットの上で眠る少女 |
運動・動向 | |
ジナイーダ・エフゲニエブナ・セレブリャコワ[2](Zinaida Evgen’evna Serebryakova、1884年11月30日[注 1] - 1967年9月19日)は、ロシア帝国の女流画家[3]。「芸術世界」で活躍した[4]。
モスクワとパリで絵を学んだ[3]。日本やトルコ、インドの美術にも興味を示していた。晩年は祖国でも個展が開催された[3]。
略歴
1884年、ハリコフ近郊のネスクチノエ村で生まれた[2]。父は彫刻家ランセレ[3]で、叔父は画家であるアレクサンドル・ベノワという芸術家の家系に生まれた。兄に画家となったエフゲニー・ランセレがいる。
1901年以降、イリヤ・レーピンやオシップ・ブラスに学んだ[2]。1902年から1930年代初めにかけて、イタリア、パリ、クリミア、スイス、モロッコなどを訪れた[2]。1905年から1906年の間はパリに滞在しグランド・ショミエール芸術学校で学んだ。
パリに鉄道技師となるために留学していた、いとこのボリス・セレブリャコフと親しくなり、1910年に結婚した。
1910年に、叔父が主導する「芸術世界」同人の展覧会に出展されたジナイーダの作品は話題となり、画廊に買い上げられた。
はじめペテルブルクで創作活動をし、1918年にハリコフ、1924年からはパリに住んだ[2]。
夫との間に4人の子供が生まれたが、ロシア革命が起きたことと、1919年に夫は病没したことで、厳しい生活を強いられた。1924年に年の若い2人の子供とパリに移った。第二次世界大戦中にフランスの市民権を取得した。
兄のエフゲニーはソビエトに戻って、画家として活躍していた。1960年になって、ソビエトで再びセレブリャコワの作品の展覧会が開かれたが、その時点では体力的にソビエトを訪れることはできなかった。
1967年、パリで死去した[2]。
作品
脚注
注釈
出典
参考文献
- 朝日新聞社 東京本社 企画部 編『ロシア・ソビエト国宝絵画展』富士美術館、1976年。NDLJP:13235916。(
要登録)
- 鴻野わか菜『生きのびるためのアート——現代ロシア美術』五柳書院〈五柳叢書 114〉、2024年11月26日。ISBN 978-4-901646-41-3。
外部リンク
- 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」『ジナイーダ セレブリャコワ』 - コトバンク
- ジナイーダ・セレブリャコワ - Google Arts & Culture
- ジナイーダ・セレブリャコワのページへのリンク