ザカフカジエへの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:45 UTC 版)
「ドゥホボール派」の記事における「ザカフカジエへの追放」の解説
次のニコライ1世の時代には、ドゥホボール派に兵役を課し集会を禁じ正教へ改宗させる命令が出された(1826年)。1830年には彼らに、兵役可能な男は軍務に就かせてザカフカジエへ派遣し、それ以外の人々もザカフカジエへ移住させる命令が出された。これにより1841年から1845年にかけて約5千人のドゥホボール派信徒がグルジアへ移住させられたとされる。以後さらに多くのドゥホボール派信徒が強制的または自らの意思でグルジアや現在のアゼルバイジャンへ移住した。ロシアが露土戦争でトルコからカルス(現トルコ領カルス県)を得る(1878年)と、一部のドゥホボール派信徒はここに移住した。 ドゥホボール派の指導者イラリオン・カルムィコフは1841年にウクライナからザカフカジエへ移住してまもなく世を去ったが、息子ピョートルが後を継いだ。彼が1864年世を去ると、その妻ルケリヤ・ヴァシーリエヴナ・グバノヴァが後を継いだ。彼女らはドゥホボール派社会に君臨し、州当局も彼女とドゥホボール派を重視したため「女王」ともいわれた。彼女の死(1886年)の頃にはザカフカスのドゥホボール派人口は2万人に達した。またこの頃には彼らは菜食主義者となり、彼らの教えに近いといわれたレフ・トルストイの思想にも親近感を抱くようになった。
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