サムイェー寺の宗論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 07:47 UTC 版)
サムイェー寺は、インド仏教と中国仏教の宗論が行われ、インド仏教が勝利することでチベット仏教の方向性を決定付けることになった事件、「サムイェー寺の宗論」の舞台としても知られる。
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サムイェー寺の宗論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/31 05:27 UTC 版)
詳細は「サムイェー寺の宗論」を参照 師シャーンタラクシタが、チベット(吐蕃)のティソン・デツェン王の招請でチベットに赴き、サムイェー寺を建立して仏教を広めた後も、カマラシーラはインドのナーランダー大僧院に残り、タントラの教授を行っていた。 その後786年に敦煌から連れて来られた中国禅僧摩訶衍の不思不観の教義が、シャーンタラクシタの死(787年)後にチベットで広がりを見せ、インド僧達との間で論争・政争が生じた。 劣勢に立たされたインド僧によりカマラシーラが招請され、サムイェー寺で論争が行われた(サムイェー寺の宗論)。 カマラシーラはこの論争に勝利し、以後インド仏教が正統とされ、チベット仏教の方向性が決定付けられた。
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