コルスン包囲戦、ワルシャワ攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 01:50 UTC 版)
「第3SS装甲師団」の記事における「コルスン包囲戦、ワルシャワ攻防戦」の解説
1944年2月、独軍5万6000がコルスンで包囲される。この救出を支援するため同師団はチェルカッシーに向かった。(最終的に第1装甲師団が友軍救出に成功している。)3月の2週間目には、キロボグラードの近くの激闘の後に同師団はバクー川後方に後退し、4月に入りルーマニアまで後退したところでようやく再編成に入ることができた。7月初め、師団はワルシャワ北方のモドリンにいるギレの第4SS装甲軍団編入のため、ポーランドのグロドノへ移動を命じられた。7月下旬にトーテンコップはワルシャワ前面に展開。その頃、6月に開始されたソ連軍のバグラチオン作戦によりドイツ中央軍集団は壊滅的な状況に陥っており、第4SS装甲軍団が東部戦線中央部においてソ連軍の侵攻を妨げる数少ない存在となっていた。1944年8月1日、ワルシャワ蜂起が発生したが、同師団は鎮圧には投入されなかった。8月中旬、モドリン近郊の激戦で第4SS装甲軍団はソ連第3装甲軍(ポーランド赤軍師団を含む)を壊滅させた。10月10日に始まった攻勢でも、ヴィスワ川とブーク川の合流点付近で阻止に成功しており、同軍団がハンガリーに移送されるまでソ連軍のワルシャワ侵攻を許さなかった。(西側寄りであったワルシャワ蜂起勢力が壊滅するまで、ソ連軍はワルシャワ侵攻を手控えていたとの説もある。)
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