グアドループ攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 23:24 UTC 版)
「グアドループ島侵攻 (1759年)」の記事における「グアドループ攻撃」の解説
バス=テール島へ航行したイギリス艦隊は1月22日に砲撃を開始、街を灰燼に化した。24日のあけぼの、イギリス軍は抵抗を受けずに上陸、内陸へ5キロメートル進軍した後に山がちな地形のところでフランス軍に遭遇した。 そのれまでに1,500人のイギリス兵士が病気にかかり、ホプソンも風土病で行動に出られなかった。2月27日にホプソンが病死、バリントンは指揮を引き継いだが、すでに600人の病人がアンティグアに送られ、さらに1,600人が病気にかかっており、イギリス軍はほぼ崩壊していた。病人の数が多くて日々の作業をやる兵士を探すにも難儀する有様であった。 一方、艦隊を指揮して別行動をとっていたジョン・ムーアはフォール=ルイ(英語版)へ艦隊を進め、要塞を降伏させてハイランダーと海兵隊300人を駐留させた。 バリントンも行動に出て、フランス軍を3方向から攻撃して5月1日に総督のシャルル・フランソワ・エマニュエル・ナドゥー・ド・トライ(フランス語版)を降伏させた。
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