クセノフォンの『キュロスの教育』
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「キュアクサレス2世 (メディア最後の王)」の記事における「クセノフォンの『キュロスの教育』」の解説
クセノフォンの『キュロスの教育』(1.5.2)によれば、キュアクサレス2世はアステュアゲスの後継としてメディア帝国の王座についた。また、キュアクサレス2世はキュロス大王の母マンダネの兄弟であった(1.2.1, 1.4.7)。クセノフォンは、紀元前539年のバビロン征服の際はペルシアのキュロスが遠征を率い、おじのキュアクサレスはエクバタナに留まっていたと記述している。キュアクサレスはその頃までには年老いており、キュロスが遠征の指揮を執っていたため、軍はキュロスを王とみなすようになった。キュロスがキュアクサレスのためにバビロンに用意した宮殿にキュアクサレスを招いたのち、キュアクサレスはその娘(キュロスのいとこにあたる)とキュロスの結婚を認め、メディア王国とともに彼に渡した。キュアクサレスは名目上バビロンからメディア=ペルシア帝国を死ぬまでの2年間統治した が、実際の権力はキュロスにあった。キュアクサレスの死に及んで、帝国は平和裏にキュロスに受け継がれた。
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