キリル文字の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 19:16 UTC 版)
グラゴル文字はスラヴ語の特徴をよくとらえたものであったが、いくつかの問題が存在した。形が複雑すぎて使用しにくかったことと、当時ブルガリアではすでにギリシア語を使う層が一定数おり、ブルガリア語をギリシア文字で表すことも行われていたことである。そこでブルガリアに移った弟子たちはグラゴル文字を改良し、900年前後よりギリシア文字に近い形の新しい文字を開発した。キリル文字の開発にあたっては、基本的にはギリシア文字を採用し、ギリシア文字では表現できないものはグラゴル文字からの借用や新文字によって表現した。しかし彼らはキュリロスをしのび、新しい文字をキュリロスの文字と呼んだ。これがキリル文字である。この名称のため、後世にはキリルが作ったのがキリル文字と信じられるようになった。上記のように弾圧を受けたこともあって文字成立期の資料がほとんど発見されていなかったため、19世紀前半まではグラゴル文字とキリル文字のどちらが古いかは謎となっていたが、19世紀中ごろに古い音韻を残したグラゴル文字資料がいくつか発見され、グラゴル文字の方が早く成立したことが明らかとなった。 キリル文字の使用が始まった時期は明確ではないが、シメオン1世の統治下(893年 - 927年)と考えられている。開発当初、キリル文字とグラゴル文字はブルガリア国内で併存しており、首都プレスラフを中心とする北東部ではキリル文字が、旧首都オフリドを中心とする西部においてはグラゴル文字が使用されていた。
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