カルムイクの東帰とウラル・コサックの蜂起
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「プガチョフの乱」の記事における「カルムイクの東帰とウラル・コサックの蜂起」の解説
エカチェリーナ2世も貴族の支持を取り付けるために農奴制の推進を継承した。そのため、農民の反乱が頻発、1762年から1769年の間だけで、ロシア中で50を越える農民暴動が発生した。エカチェリーナ2世が女帝であり、1762年に夫であり先帝のピョートル3世が謎の死を遂げた、とされたことも、事態を悪化させた。 1755年から1759年にかけて清の乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を征服し、清・ジュンガル戦争が終結した。疫病(天然痘)の蔓延でカルムイク人の父祖の地が空き地になると、1771年にカルムイク人指導者ウバシ(ロシア語版、ドイツ語版)が、父祖の地である東トルキスタンのイリ地方へ帰還し、ロシア政府はカルムイク人たちを逃がすことで、農奴制を支える辺境守備の無能ぶりをさらけだした。こうして権威が失墜すると、ヤイク川(現ウラル川)流域でヤイク・コサック(ロシア語版、英語版)(ウラル・コサック)がウラル・コサックの蜂起 (1772年)を起こした。
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