カトリック教会との断絶・破門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:01 UTC 版)
「マルティン・ルター」の記事における「カトリック教会との断絶・破門」の解説
カトリック教会との断絶が決定的となったこのころ、ルターの周囲には賛同者たちが集まり始めた。その中にはフィリップ・メランヒトンやマルティン・ブツァー、トマス・ミュンツァーなどの姿もあった。ルターが1520年にあいついで発表した文書は宗教改革の歴史の中で非常に重要な文書であり、ルターの方向性を確定することになった。それは『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』であった。『ドイツ貴族に与える書』では教会の聖職位階制度を否定し、『教会のバビロニア捕囚』では聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定、『キリスト者の自由』では人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論が聖書を引用しながら主張されている。 レオ10世は回勅『エクスルゲ・ドミネ』(主よ、立ってください)を発布して自説の41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。これを受けて1521年の回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』(ローマ教皇として)によってルターの破門が正式に通告された[要出典]。
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