カタナへの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:21 UTC 版)
翌紀元前397年に陸軍の準備が整うと、ヒミルコは陸兵50,000、三段櫂船400、輸送船600を率いてシケリアに向かった。途中でレプティネス率いるギリシア艦隊がカルタゴ艦隊の阻止を試みたが、輸送船50隻を撃沈しただけで失敗した。ヒミルコはパノルムスに上陸し、そこでシケリア現地兵30,000と合流すると、まずはエリュクスを占領した後にモティアに向かった。モティアの守備兵は大部分がシケル人で、指揮官の名前はビトンであったが、容易に撃破された。ヒミルコの次の目標はディオニュシオスが包囲するセゲスタの解放であったが、ギリシア軍はカルタゴ軍の接近を知ると、数に勝る敵軍との戦闘を避けてシュラクサイに撤退した。ヒミルコはパノルムスに戻り、カルタゴ領を防衛するのに必要な守備兵を残すと、メッセネに向かって軍船300隻、輸送船300隻と共に北岸沿いを東進した。途中リパラ(現在のリーパリ)に向かい、そこで30タレントを献上金として出させた。リパラを出帆したカルタゴ艦隊は東へ向かい、陸軍はメッセネの12マイル北方のペロルム岬(現在のカポ・ペローロ)に上陸し、野営地を設営した。メッセネ陸軍は街を出てカルタゴ軍に向かった。ヒミルコは軍船200隻で海上からメッセネを急襲し、占領・破壊した。ギリシア軍は郊外のいくつかの要塞に逃げ込んだ。ヒミルコはメッセネを脱出した人々が逃げ込んだ要塞をつぶしていこうとしたが、それには時間がかかりすぎることが判り、これを中止した。
※この「カタナへの道」の解説は、「カタナ沖の海戦」の解説の一部です。
「カタナへの道」を含む「カタナ沖の海戦」の記事については、「カタナ沖の海戦」の概要を参照ください。
- カタナへの道のページへのリンク