オーストリア=ハンガリー帝国期
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「カール・ザイツ」の記事における「オーストリア=ハンガリー帝国期」の解説
教員を追われたザイツは政治活動に精を出すようになり、党内でも教育分野において高名な専門家として名声を上げた。1901年には帝国議会(英語版、ドイツ語版)議員に当選し、続く1902年には低地オーストリア暫定議会議員にも当選した。1914年に第一次世界大戦が開戦してからは平和主義主張の傾向を強め、1917年に開催されたストックホルム社会主義者会議にも参加している。 オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊が進む1918年10月21日、ドイツ人地域から選出されていた帝国議会議員たちは帝国解体による混乱を抑えるためにドイツ=オーストリア暫定国民議会(ドイツ語版)を設置した。ザイツは暫定国民議会設置に際して、3人設置された議長の一人となった。一週間ほどが経過した同月30日には、非公式ながらも臨時の国家元首として頭角を見せた。11月12日、オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世が「国事不関与」宣言を出して事実上退位したことを受けてオーストリア=ハンガリー帝国は消滅、暫定憲法の発布によってドイツ=オーストリア共和国の建国が宣言され、ザイツは同国の大統領に就任した。 またドイツ=オーストリア共和国の成立とほぼ同時期に、オーストリア社会民主労働党の党首であったヴィクトル・アドラーが病死した。このことを受けて、ザイツは同党の党首にも就任することとなった。
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