オイゼビウス・マンディチェフスキ
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| オイゼビウス・マンディチェフスキ | |
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| 基本情報 | |
| 生誕 | 1857年8月18日 |
| 出身地 | |
| 死没 | 1929年7月13日(71歳没) |
| ジャンル | クラシック音楽 |
| 職業 | ヴァイオリニスト |
| 担当楽器 | ヴァイオリン |
オイゼビウス・マンディチェフスキ(ドイツ語: Eusebius Mandyczewski, ウクライナ語: Євсевій Мандичевський Ėvsevij Mandyčevśkyj, ルーマニア語: Eusebie Mandicevschi, 1857年8月18日 - 1929年7月13日)はオーストリア=ハンガリー帝国の音楽学者・音楽教師・指揮者・作曲家。ウクライナ系・ルーマニア系。幅広い知識と探究心をそなえた研究者として知られるが、出版した著作は数少ない。
経歴
正教会のウクライナ人司祭を父親に、ブコヴィナ北部のチェルノヴィツ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国領、第一次世界大戦後はルーマニア王国領、現在はウクライナ領)に生まれる[1]。ウィーン音楽院に進んで音楽理論をグスタフ・ノッテボームに、作曲をロベルト・フックスに、音楽学をエドゥアルト・ハンスリックに師事[1]。1879年よりヨハネス・ブラームスの親友となり[1]、そのサークルの一員となった(またブラームスがグスタフ・イェナーを指導するのを輔佐している)。
1887年よりウィーン・ジングアカデミーの指揮者ならびにウィーン楽友協会の司書に就任。その後は1897年よりウィーン音楽院にて音楽史の教授に就任し、その後はウィーン音楽院で楽器史、和声法、対位法、作曲を指導した。 1916年には枢密院に登用された。
フランツ・シューベルト作品全集およびフランツ・ヨーゼフ・ハイドン作品全集の校訂者であり、また友人ブラームスの作品全集において門弟ハンス・ガルとともに校訂に当たった。これらの版は、ドーヴァー社より復刻されている。
その他の著名な門人に、ジョージ・セル、カール・ベーム、ヨーゼフ・クリップス、フリッツ・シュティードリー、アルトゥール・シュナーベルら。
作曲家としては、正教会のための奉神礼音楽のほか、ピアノ曲や連作歌曲を手懸けた。
1929年にニーダーエスターライヒ州のズルツ(Sulz im Weinviertel)で没した[1]。
脚注
参考文献
- Martha Handlos: Mandyczewski, Eusebius. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 16, Duncker & Humblot, Berlin 1990, ISBN 3-428-00197-4, S. 20 (電子テキスト版).
- “Mandyczewski, Eusebius (1857-1929), Musikwissenschaftler und Komponist”. Österreichisches Biographisches Lexikon. 6. (1973). p. 49
固有名詞の分類
| 近現代の作曲家 |
ロケ・コルデロ フランツ・フォン・ヴェチェイ オイゼビウス・マンディチェフスキ イヴァン・ジェルジンスキー ドミトリー・カバレフスキー |
| ロマン派の作曲家 |
フランツ・フォン・ヴェチェイ エルフリーダ・アンドレー オイゼビウス・マンディチェフスキ アルフレッド・ブリュノー ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク |
| オーストリアの作曲家 |
ヨーゼフ・アイブラー ジョーゼフ・ホロヴィッツ オイゼビウス・マンディチェフスキ フランツ・シュレーカー アントン・ブルックナー |
| ウクライナの作曲家 |
ニコライ・カプースチン マクシム・ベレゾフスキー オイゼビウス・マンディチェフスキ シャンドル・カロシュ ミコラ・コレッサ |
| ルーマニアの作曲家 |
ホラチウ・ラドゥレスク クルターグ・ジェルジュ オイゼビウス・マンディチェフスキ マリユス・コンスタン パウル・コンスタンティネスク |
| オーストリアの音楽学者 |
ユリウス・エプシュタイン オットー・エーリヒ・ドイチュ ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル オイゼビウス・マンディチェフスキ レオポルト・ノヴァーク |
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