フリッツ・シュティードリーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 音楽家 > 演奏家 > ドイツの指揮者 > フリッツ・シュティードリーの意味・解説 

フリッツ・シュティードリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:20 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
フリッツ・シュティードリー
基本情報
生誕 (1883-10-11) 1883年10月11日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没 (1968-08-08) 1968年8月8日(84歳没)
スイスチューリヒ
学歴 ウィーン大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者

フリッツ・シュティードリー(Fritz Stiedry, 1883年10月11日 ウィーン - 1968年8月8日 チューリヒ)は、オーストリア指揮者

経歴

ウィーン大学法学を学んでいた頃、グスタフ・マーラーに楽才を見出され、1907年にその助手としてウィーン宮廷歌劇場より任命される。その後いくつか指揮者の助手を経験した後、カッセル歌劇場やベルリン・ドイツ・オペラの首席指揮者に抜擢された。

1933年ヒトラーの権力掌握への反撥からドイツを去り、1934年から1937年までレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。ショスタコーヴィチの『交響曲第4番』の初演を任されリハーサルを行なっていたが、楽団員の抵抗もあり[1]直前になって初演はキャンセルされた。一時期は、ショスタコーヴィチがシュティードリーにはこの曲の複雑さを捌き切れないと感じたからだ、とする説も広まったが[1]ソ連共産党の公式の圧力によってショスタコーヴィチが初演を撤回させられたとする見解が優勢である[2][3]

1937年にシュティードリーはレニングラードを経てアメリカ合衆国に向かう。ニューヨーク新楽友オーケストラの指揮者となり、バッハハイドンモーツァルトの長く忘れられてきた作品を上演し、またシェーンベルクの『室内交響曲 第2番』を初演した。1945年以降はオペラ界に復帰し、シカゴ・リリック・オペラメトロポリタン歌劇場で指揮した。手に入るCDではメトロポリタン・オペラとのワーグナーの『ニーベルングの指環』が身近である。

外部リンク

脚注

  1. ^ a b ローレル・E・ファーイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』藤岡啓介、佐々木千恵訳、アルファベータ、2005年(改訂新版)、128頁。ISBN 978-4-87198-534-5
  2. ^ Glikman, Isaak, sost, "Pis'ma k drugu: pis'ma D. D. Shostakovicha k I. D. Glikmanu. Moskva, 1993. pp. 12-13.
  3. ^ サンフランシスコ交響楽団のプログラム・ノート”. 2008年3月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年3月5日閲覧。
先代:
アレクサンドル・ガウク
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団 音楽監督
1934年 - 1937年
次代:
エフゲニー・ムラヴィンスキー




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フリッツ・シュティードリー」の関連用語

フリッツ・シュティードリーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フリッツ・シュティードリーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフリッツ・シュティードリー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS