エマ (ハワイ王妃)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 02:56 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動エマ(英語: Queen Emma of Hawaii、1836年1月2日 - 1885年4月25日)は、ハワイ王国の国王カメハメハ4世の妻。1856年から1863年に夫が亡くなるまで王妃であった。彼女は後に王位継承候補として立候補したが、カラカウア王が選出された。
生涯
エマは1836年1月2日にホノルルで生まれ、しばしばエマ・ラニ(「ロイヤル・エマ」)と呼ばれた。父親は大酋長ジョージ・ナエア (George Naʻea) であり、母親はファニー・ケケラオカラニ・ヤング (Fanny Kekelaokalani Young) であった。教育はアメリカの宣教師たちが建てた王立学校 (Royal School) で受け、1856年カメハメハ4世(本名:リホリホ、在位:1855 - 1863年)と結婚した。
エマ王妃には数々の功績があり、まず宗教に関して、イングランド教会(聖公会)を1862年10月にハワイに招いてハワイ教会 (Church of Hawaii) を建て、リホリホと共に洗礼を受け、翌月堅信を受けた。その後、ハワイ教会は米国聖公会ハワイ教区となり、米国聖公会では11月28日を「リホリホとエマの聖名祝日」としている。また自ら寄付を募り、セントアンドリューズ大聖堂の基礎を築いた[1]。
教育方面では、聖アンドリューズ女子学校 (St. Andrew's Priory School) を建て、イオラニ学校 (Iolani School) の基礎を築いたりした。また、衛生方面ではクイーンズ病院 (The Queen's Medical Center) を設立するなどした。この病院は、現在でもハワイ州最大の市立病院である。
リホリホ亡き後、エマは1874年にハワイ国王の選挙に王位継承候補として立候補したが、カラカウア王が選出された。
エマはイギリスのヴィクトリア女王とも親しく、互いに親書を何度も交わしている。1885年4月25日、エマはホノルルで亡くなった。
エマ王妃はヌウアヌパリ・ルックアウトに向かう丘の上にある、このホノルル港を見渡せる館に住んでいた。この館は現在も「エマ王妃夏の離宮」(Hānaiakamalama)として一般に公開されている[2]。
脚注
関連項目
外部リンク
「エマ (ハワイ王妃)」の例文・使い方・用例・文例
- アンソニー・ブラウンが司会を務め、エマ・ピーターソンが共同司会者になる。
- エドワード・エマーソン・バーナードはアメリカの天文学者であり、天体写真術の開拓者である。
- その国からエマージングマーケットへの中古車の輸出が増加している。
- エマは歌を歌うことが好きだ。
- パーティーの間中エマの存在は特に人目を引いた。
- エマは虚弱体質だ。
- エマスンは人間を宇宙の縮図と考えた.
- 『比較文学』第 20 巻春季号(1992 年)所収の拙論「エマスンにおける東洋」参照.
- エマが才智にたけて活発だったのに対してフロレンスは感性豊かで繊細だった.
- スペクトルエマナチオン
- 聖職者の職は、二倍です;公的に説教をすることと個人の影響−R・W・エマーソン
- 愚かな首尾一貫性は狭い心が化けた物である−ラルフ・ウォールドー・エマソン
- ハエマンサス属の落葉性、または常緑の草本の総称
- エマランゲニという通貨単位
- 2年目を迎えてホグワーツに戻り,親友のロン(ルパート・グリント)とハーマイオニー(エマ・ワトソン)に会うのが待ち遠しかった。
- ある夫婦(エマ・トンプソンとアラン・リックマン)は,結婚生活の危機の真っただ中にいる。
- ハリーの親友である,ハーマイオニー・グレンジャー(エマ・ワトソン)とロン・ウィーズリー(ルパート・グリント)は,ハリーが級友たちに闇の力と戦う方法を教えるべきだと主張する。
- オグシオ組とスエマエ組はともに8月の北京五輪に出場し,スエマエ組は4位に入った。
- ハリー,ロン・ウィーズリー(ルパート・グリント),ハーマイオニー・グレンジャー(エマ・ワトソン)も例外ではない。
- ハリー(ダニエル・ラドクリフ)と友人のロン・ウィーズリー(ルパート・グリント)とハーマイオニー・グレンジャー(エマ・ワトソン)は危険な使命を負っている。
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