アーブロース宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:39 UTC 版)
「スコットランドの歴史」の記事における「アーブロース宣言」の解説
ノルマン・コンクエストに始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらした。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化である。 ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもあった。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌス長城を上下した。エドワード1世のスコットランド侵攻とウィリアム・ウォレスの抵抗も、その文脈の中で起こった事件だった。 スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「古い同盟」(Auld Alliance)を結んで対抗した。その後しばらくフランスとは友好関係を維持するが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもあった。エドワード1世の征服により1296年イングランドに屈服して、王座のシンボルであったスクーンの石を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立した。 参照:スコットランド独立戦争 このとき有力諸侯によって採択され、ロバート1世が承認したアーブロース宣言(1320年)は、マグナ・カルタのごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となった。いわく、イングランドに従属する王は人々の手によって斥けられるとする。この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらした。
※この「アーブロース宣言」の解説は、「スコットランドの歴史」の解説の一部です。
「アーブロース宣言」を含む「スコットランドの歴史」の記事については、「スコットランドの歴史」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からアーブロース宣言を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- アーブロース宣言のページへのリンク