アーサー王太子との結婚・死別
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「キャサリン・オブ・アラゴン」の記事における「アーサー王太子との結婚・死別」の解説
14歳のキャサリンは、1501年5月21日にグラナダを出発し、スペイン内陸での巡礼を経て、10月2日にプリマスに到着した。そしてイングランド各地で奉迎を受けながら、11月4日にリッチモンド宮殿でヘンリー7世およびアーサー王太子と対面した。11月12日にロンドンに入城した。ヘンリー7世は、2人の将来における王位継承の正統性を印象付けるために様々な配慮をした。その一つが、さまざまな見世物(パジェントリ)で、アーサー王伝説や聖カタリナにちなんで2人を讃える演目が披露された。一連の行事の中で、キャサリンの案内役は12歳の第2王子ヘンリー王子(後のヘンリー8世)であり、バッキンガム公エドワード・スタッフォードはキャサリンに強い印象を残して友情で結ばれる。このとき、キャサリンが着用したドレスのファージンゲールは、たちまちイングランド宮廷に流行し各国に広がった。 11月14日にセント・ポール大聖堂 (Old St Paul's Cathedral) でアーサー王太子と華燭の典を挙げた。プリンス・オブ・ウェールズが妃を迎えるのはエドワード黒太子の妃ジョーン・オブ・ケント以来、史上2番目の出来事とされた。婚礼の食事、舞踏会が終わり、アーサーとキャサリンは寝室へ向かう。このとき、2人が肉体関係を持ったか否かについては、この時点では重要視されなかった。 12月にアーサーの静養に伴ってラドロー城へ赴く。しかし当地の気候に慣れたはずのアーサーも、流行の感冒にかかり、1502年4月2日に急逝した。
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