アンフィポリスの戦いとクレオンの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/24 07:30 UTC 版)
「クレオン (政治家)」の記事における「アンフィポリスの戦いとクレオンの最期」の解説
紀元前423年、アテナイとの同盟から離反したカルキディケ半島のスキオネの市民の処刑をクレオンは提案し、票決された。その結果、ニコストラトスとニキアスを将軍とする遠征軍が送られた。 しかし、彼らはスキオネを落とすことなく帰国し、さらにトラキアにスパルタから将軍ブラシダスが派遣され、アテナイの勢力圏を侵していたため、クレオンはアテナイ人を説得し、翌年にアテナイ人重装歩兵1200人、騎兵300騎、それ以上の数の同盟軍と艦隊30隻を率いてトラキア遠征へと向った。彼はスキオネ包囲軍の一部を吸収してブラシダスを求めてトロネ近くのコポス港へ向かい、次いでトロネを包囲して落とした。クレオンはトロネの男は捕虜としてアテナイに送り、女子供は奴隷として売った。そして、彼はブラシダスに奪われていたアンフィポリスの奪回へと向った。 アンフィポリスに接するストリュモン川の河口のエイオンに基地を置いたクレオンはスタギュロスを攻めるも失敗したが、ガレプソスを落とし、そしてマケドニア王ペルディッカス2世とオドマントイ族の王ポレスに援軍を要請した。これに対し、アンフィポリスを守るブラシダスはアテナイ軍を見渡せるケルデュリオンへと向かい、トラキア人傭兵1500人、エドネス族の軽装歩兵と騎兵を援軍に迎えた。 兵士たちが彼らの将軍が積極的に敵を攻めないのに不満を持つようになったため、クレオンはアンフィポリスへと攻め上った。しかし、援軍が到着しないうち決戦をすべきではないと彼は考え、軍に退却を命じた。アンフィポリス市の東にいたアテナイ軍が退却を始め、無防備な側面を自軍に曝すやブラシダスはアンフィポリスから出撃し、敵に攻撃を仕掛けた。この時、トゥキュディデスはクレオンは直ちに逃亡しようとしたものの殺されたと述べているが、ディオドロスはクレオンは勇敢に戦って討ち死にしたと述べている。
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